村上春樹の初期の短編小説に「スパゲッティの年に」というのがあります。
「一九七一年、僕は生きるためにスパゲッティを茹で続け・・・」と、冒頭からこのような文章が始まります。
紀元1971年、その年はスパゲッティの年であったという事で、主人公はスパゲッティを茹でるために生き続けたのだということです。

スパゲッティを毎日、ルーティンのように茹でつづける。
この行為が意味するのは、主人公が他者との関わり合いを遮断し続けるということがスパゲッティを茹で続けると言う事なのだと思います。

一人でスパゲッティを食べているとよく、誰かがドアをノックして入ってくる気配を感じます。
その人物とはある時は見知らぬ人であったり、ある時は見覚えのある人であったりするのですが、誰一人として部屋には入ってくることはありません。
スパゲッティを茹でる行為。
その行為には主人公からすれば重要な意味があるのです。
茹でる行為自体に意味があるのではなく、その行為をさせてしまう主人公の内なる深層の部分に定まらぬ揺れが存在してのいるのです。
その行為は防備なのか、反抗なのか。
主人公は黙々とスパゲッティを茹で続けますが、その1971年の年は成長でもなく後退でもなくただそこに留まっているだけという解決の糸口が見えない時期であったのだと思います。

物語は抽象度の高い文章から始まるのですが、いきなり現実的な女性との電話でのやり取りのシーンに転じます。
スパゲッティを茹でている最中に、ある女性から電話がかかってくるのです。
その女性との電話での会話はとてもリアルなタッチで書かれています。
現実の世界からかかってきた女性からの会話の中で、主人公は自分の空想の中でしか対応が出来ていません。
空想の鍋の中に空想の水を入れ空想の火を入れ、女性に「今、スパゲッティを茹でている最中だから手が離せない」と答えます。
女性との現実的な会話がおわり電話を切ったあと、主人公はその時間が過ぎたことを証明するような床の上に落ちている光の移動を確認します。

今となっては孤独な時期の懐かしくもあり悲しい時期でもあったことを後悔の念を抱いて記憶の糸をたどったところで終わります。

スパゲッティを茹でる時間はキッチリ12分。
その12分という厳密な時間の厳守は、主人公がかたくなに閉ざして抜け出すことが出来なかった葛藤の時間を意味するものだったのかもしれません。

12分間という茹で時間が多少違ったとしても、スパゲッティが食べれなくなるということはないんですけどね。




著者

fujise shigeru

オートバイが好きで、たまに小説を読んでます。 気が向いたら写真なんかを撮り、健康のために走ったりもしてます。 そんな雑多な日々をブログにアップしてます。 気が向いたら書くという感じですが、共感していただければ幸いです。

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