最近は韓国文学小説が本屋の棚にコーナーとして置かれています。
同じ東洋人ではありますが日本人作家とは作風が似ているようで違うという、ある意味新鮮な読みができる韓国文学です。
東アジア圏で初めて英国のブッカー国際賞を受賞した、韓国を代表する実力のある作家です。
次のノーベル文学賞が仮に東洋人に与えられるとしたら、その有力な候補者の一人に挙げられているのではないでしょうか。
ハンガンの書く文体はキレがあり無駄のないもので、読む側としては一文一文を噛みしめて読まなければいけません。
長々と説明的な書き方ではなく、詩のような重みのある言葉が並んでいます。
「菜食主義者」ですが、菜食主義者・蒙古斑・気の花火と三つの物語から成り立っています。
それぞれの章に違った角度で主人公の思考を立ててあるのですが、次の章が加わるごとに深い問いが生み出されていく感じです。
一方的な解釈を付けることはできず、実際の出来事は一つなのに章ごとに捉え方が違ってきて、三つの章を読み終わった時点で改めて奥底に置かれている問いを突き付けられるといった物語です。
人の心理を詩的な文体で表現してあぶりだすという、作家が実体験をもとにその心理の底に降りて行って書いているのではないかと思えるぐらい迫力のある文章。
ストレートに貫くといった文章には無駄と思える部分はなく、文中に散りばめられた暗示的な言葉が何か大事なことを発し続けています。
ヨンスは気が狂ったのではなく、実は純粋すぎるのではないか。
タガが外れたと言う事ではなく、自分の心理を自由に開放したことなのではないのか。
このような理解もできるのではないかと考えました。
ヨンスは夢を見ます。
その夢は血の滴る肉塊という現物として認識され、そしてそれは植物という何の害も加えることのない自然的なものになりたいという願望を生まれさせます。
ヨンスは気質的なものが原因で精神を病んだのではなくて、その純粋で真っ直ぐな心の発芽のタイミングを止められたことにより病んでしまったとも考えられます。
器用に自分をごまかすと言う事が出来なかったのです。
誰が正しくて、だれが悪いのか。
それは光の当て方で、いかようにも読めるのかもしれません。
文章表現にはグロテスクに感じる一歩手前といった部分がありますが、ある意味新鮮であり、なにかグッとえぐられるものを感じました。
読後はなにかズシリと重いものが残ります。
この小説は、他者の視点を持つことの大切さを伝えようとしているのかもしれません。
言葉が物語を作るのか。
それとも、物語が言葉を発するのか。
作品を作りこむ込むという事と、作品を生み出すという事の違い。
村上春樹は頭で創作して書いている部分を感じますが、ハンガンは実際的な感触で書いているのではと思います。
ハンガンの中には、なにか心に刻まれたある種の強いテーマがあるのではと感じてしまいます。